宮本百合子の作品

 恋愛は、実に熱烈で霊感的な畏ろしいものです。
 人間の棲む到る処に恋愛の事件があり、個人の伝記には必ずその人の恋愛問題が含まれてはいますが、人類全般、個人の全生活を通観すると、それらは、強いが烈しいが、過程的な一つの現象と思われます。
 恋愛経験の最中にある時、或は何かの理由で恋愛的雰囲気に対して非常に敏感になっているとき、私共は自分にもひとにも第一、気になるのは恋愛のことばかりだと云う風に思います。けれども、じっと見るとどんな熱情的な恋愛をしている人でも、人間として他方面の必然な生活条件は満しています。生活の大河は、その火花のような恋、焔のような愛を包括して怠みなく静かに流れて行く。確かに重大な、人間の霊肉を根本から震盪するものではあっても、人間の裡にある生活力は多くの場合その恋愛のために燃えつきるようなことはなく、却って酵母としてそれを暖め反芻し、個人の生活全般を豊富にする養液にしてしまいます。
 また恋愛は、独特な創造力を持っているとも思われます。恋愛は決して百年同一の状態に止ることをしません。必ず或る消長があります。草木が宇宙の季節を感じるように、一日に暁と白昼と優しい黄昏の愁があるように、推移しずにはいません。いつか或るところに人間をつき出します。それが破綻であるか、或いは互いに一層深まり落付き信じ合った愛の団欒か、互いの性格と運とによりましょが、いずれにせよ、行きつくところまで行きついてそこに新たな境地を開かせる本質が恋愛につきものなのです。

 お幾の信仰は、何時頃から始まったものなのか、またその始まりにどんな動機を持っているのか、誰も知る者はなかった。ただそれと心附いた時には、もう十幾人という昔からの友達の中で、一人として彼女から、あらたかな天理王命(てんりおうのみこと)の加護に就て説き聞かされない者はないほどになっていた。
 肥って、裕福で仕合わせなお幾は、友達仲間に、何か一寸した不幸でも起ったという噂を聞くと、先ず何事を置いても馳せつけて、その人達の心を慰めずには置かない。丸々と指のつけねにくぼみの入った両手を、盛り上った膝の左右に軽く支え、心持頭を左に傾けながら、
「フーム、フーム」
と心を入れて人の述懐を聞く彼女は、ほんとにどこから見ても気の良い親切な「おばさん」に見えた。種々な批評はしながらも、人々は彼女の正直な、快恬(かいてん)な気分に引立てられる。ただその後で必ず附きものになっている天理教の講釈と、信仰の勧めだけには、彼女が熱心であればあるほど、会うほどの者が悩まされずにはいなかったのである。
 処女時代を、相当に高い教育で鍛えられて来た友達は、皆、半ばの揶揄(やゆ)と好奇心とに動かされながら、柄にもない信心に没頭し始めたお幾の行動を注目していた。そして、何かの折に彼女を中心として、例の信仰談に花が咲くと、いつとなく揃ってしめし合わせでもしたように熱烈なお幾の雄弁を、すらりすらりと除けながら、最後にはきっと、
「けれどもねお幾さん。私共には到底そんな信心深い心は持てないのですよ、そんなに有難い神様なら、あなた何故お恵さんを真先に信仰させてお上げにならないの?」
という一句で、止(とどめ)を刺すのが常であった。この一句さえ出れば、どんなに気負っていたお幾も気の毒なほど俄に悄然として、
「ほんとにねえ……」
と云ったまま、もう決して二度とその鋭鋒を現さない。そのこつを、皆はすっかり飲み込んでいたのである。然し誰一人、何故それほどお幾がそれを云われさえすると落胆するのか、理由は知らなかった。恵子とは子供の時分から中年になった今日まで一言「お仲よし」と云いさえすれば、あああの方達のことかと解るほど有名な仲よしで通って来た。そのお幾が、皆を辟易させるほどの真剣さを以ても、なお、第一の理解者であるべきお恵さんを説服し得ないということは、二人の性格を知り抜いている者には、一層不思議なことなのであった。
 お稚児に結って、小学校に通っていた頃から、お恵さんは痩ぎすな、淋しい静かな子であった。けれどもお幾の方はまるでそれとは反対で、何時でも自分の仲よしを、或る程度まで思いのままに操縦する活気を持って生れていた。いいにも悪いにも、自分を立てて来られたのが、このこと許りは思うように行かないので勝気なお幾はきっと残念なのだろうと、傍の者は思っていたのである。
 お幾にしても、そういう気分がないことはなかった。生れた時から不幸を背負わされて出て来たようなお恵さんを、彼女が物質的にも精神的にも補助して来た友情は、決して並大抵のものではない。それと同時に、自分の深い友情に対して、長い時が経ると共に湧いて来た一種の矜持ともいうべきものが、皆の言葉で何となく権威を失うような心持もされるのである。然し、「お恵さんを云々」という一句で彼女がそれほど悄然とする理由は、決してこれ許りではなかった。それに就ては、さすがのお幾も冷汗を掻かずにはいられないような思い出が、誰にも語られずに、でっぷり重そうな胸の中に蔵されていたのである。

 過日『仰日』ならびに『檜の影』会からお手紙を頂き重ねてあなたからのお手紙拝見いたしました。『仰日』を拝見して、短歌については素人ですが一つ二つ感想を申上ます。
 わたくしは一人の読者として『仰日』におさめられている多くの生活の歌につよく心をひかれました。父をうたい祖母を語り、故郷の生活について描いて来た作者が、妻を得て、そこに独特のいつくしみ合いをもって生きつつある歌の数々は、『仰日』をつらぬく紅い糸のようです。うたわれている妻なるひとが、どんなにまめやかであり、自然なこころもちの婦人であるかということや、独特の夫妻としてのつながりのうちに、微妙な情愛のゆきかいのあることなどが、しみじみと感じとられます。夫婦が、たすけあって畑仕事をしたりしているところの歌は、世間のどの歌人もふれ得ない境地に立っていると感じました。
 わたくしは、小説をかく者ですから、『仰日』をはじから拝見しながらも、いつかそれを生活的に立体化して感受し、日々の生活の描写にまじえて、自然鑑賞の歌をうけとるという工合になります。生活の歌はほとんどすべて率直であって、その瞬間の真実に立って独自です。そこにないあわされて来る自然鑑賞では、作者がアララギの格調というものに即していて、決して生活の歌ほどの独自性に立っていないということは、まことに興味あるところだと感じました。ある作は、生活の歌にある生の感覚の独自さとぴったりしていて、うたれます。しかしあるものはどんな条件で生活するどんな人でも一定の感覚と技法――アララギの枠の中での――でよめる作品であるというのも少なくないように思えました。
 それから芸術的に言って、最も戒心のいるのは、アララギ流の儀礼による作歌の場合です。


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